HP管理人から=これまで会員の方々が歩んできた人生を振り返り、先輩から後輩(奄高生)に対する伝言やアドバイスなどがあればお寄せください。自身の成功談や失敗談などを問わず、これまでの人生におけるターニングポイント(転換点)となったこと等、後輩が今後の長い人生を生き抜く上で参考となるようなメッセージを募集しています。
知識と経験生かし古希目前でも“昼の水商売”続行中−中村孝也
私は来年、古希(70歳)を迎える。現在、私は奄美市に住み、同市の老朽化した平田浄水場の更新事業の電気設備部門を担当し、69歳の今でも現役の技術者として働いている。また、趣味の面では奄美市内にある草野球とソフトボールのチームでレギュラーを務めており、地域社会と積極的に関わり公私ともに充実した生活を送っている。
奄美高校(旧大島実高)を卒業後50年。生を受けてからほぼ70年近い人生を歩んできた。私は長い人生の中で定年前より60代からの方が充実し、これまでになかった幸福感を味わっている。年寄りの繰り言かもしれないが、これから長い人生を歩む後輩の諸君に少しでも参考になればと思い、筆を執ることにした。
私は終戦の年の昭和20年9月、徳之島の花徳(けどく、旧東天城村)で生まれ東天城中学校を卒業。長兄が旧名瀬市で事業を行い、兄の経済的支援も得られることから旧大島実高電気科へと進んだ。高校生活を終え卒業後は東京の小田急電鉄(株)に就職した。しかし、仕事内容が希望とは懸け離れていたため1年足らずで退職。名瀬に舞い戻ったが、その仕事にも満足出来ず、再び上京し電気工事の仕事に就いた。
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平田浄水場(右)と貯水タンク(中)
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希望職種でもあったことから、その後は電気工事の知識や技術を習得していくことにした。27歳ごろから関連する電気工事士の免状をはじめその他の国家資格に挑戦していった。そのうちにもっと技術的にスキルアップして自分の技術を磨き上げよう、と水プラントシステムの道へ進むことにした。
縁あって31歳の時、水処理関連会社の三協工業株式会社に入社。私は電気設備工事の施行管理などを担当することになった。関連するこの方面の勉強をもっとしなくてはならなくなった。仕事をしながらの国家試験の勉強はきつく大変であったが、この決断と努力が私のその後の人生において大きな果実につながる最高の決断だった、と思う。第一種、高圧電気工事士の他、特殊電気工事士や高圧ケーブル工事技能認定などの資格を取得した。
「継続は力なり」。中でも48歳で取得した一級電気工事施工管理技師は難しかったが、その後の仕事の上で最も役立った資格だ。これらの資格試験はいずれも独学で取ったものだが、還暦を過ぎてからも頭の体操とボケ防止を兼ね、奄美図書館で勉強し資格試験に挑戦してきた。昨年、68歳の時には甲種第4類消防設備士も取得した。
バブル崩壊後も仕事がある幸せ
話は前後するが、64歳まで勤めた会社の業務は「水」に関することばかり。海外ではODA(政府開発援助)による低開発国での井戸掘りやトラックに載せた井戸掘り機械の販売を行っていた。また、国内では浄水場や排水処理場等のポンプ機械、電気設備の設計施工、脱臭設備の設計施工、井戸に関する地質調査等々。そのうち私は、主に関東地区での浄水場建設やリニューアル工事の設計施工等に携わってきた。
当時、社外や初対面の人から「中村さんは何の仕事をしているのですか」と聞かれ、私が“昼間の水商売だよ”と答えると「えっ、それって何の仕事です?」と不思議がられ、皆を煙に巻いていたのを思い出す。
平成3年のバブル崩壊以来、勤めていた会社は他社同様に業績が伸びなくなった。営業や事務職の人達が60歳定年を迎え、「このまま定年延長で働きたい」と希望を出しても「はい、ご苦労様でした」の一言で、会社を去らざるを得なかった。
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浄水場より市街地を望む(右はループ橋)
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中央監視室でポンプの運転状況を確認する私
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平田浄水場で仕事をする私
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同左
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それに対して我々技術者は、会社側から「定年延長後も働いてほしい」と言われ、ほぼ無条件で働くことができた。私も平成17年9月に60歳定年を迎えたが、そのまま定年延長で同じ職場で働くことができた。しかし、奄美市で一人で暮らす義母の介護のため、平成21年にUターンし5年と半年が経った。
冒頭でも記したが、私は現在、平田浄水場のシステムを更新する事業で電気設備周りを担当している。更新事業の一番の狙いは、大川ダムなどから引いた水を浸透膜に通し処理して特殊菌(クリプトスポリジウムという)などを除去。奄美市民により安全で美味しい水道水を供給するのが目的だ。
私の担当する具体的な電気設備工事は、高圧受電設備と自家発電設備、動力電気設備、電気計装設備等の電気自動制御システム全般の施工管理だ。この事業は今年度から平成30年度までの継続事業だ。浸透膜の水処理システムの歴史が過去20年にも満たない新方式であるため、完成した暁には多くの自治体関係者が見学に訪れるだろう、と今から思っている。そんなことから、私は地域社会に若干なりとも貢献しているのではないか、との自負を持っている次第だ。
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還暦(満69歳)以上の野球大会前、仲間と記念撮影(左から4人目が私)
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私は男の子が3人いた関係で、息子を「甲子園出場、6大学野球選手、プロ野球選手」にするのが夢だった。そんなことから私は、少年野球の監督と役員を横浜市で37年間にわたってやってきた。残念ながら息子に託した夢はかなわなかったが、少年野球の教え子2人が甲子園出場を果たした。その趣味の延長で、今でも奄美の仲間と草野球などを親しんでいる。
趣味や仕事を持つことで、この年代になっても新しい人々との出会いや触れ合いがあり、楽しく生きがいのある生活を送っている。先にも記したように私は今、これまでの人生の中で一番の幸福感を味わっている。
(2014.12.14up)
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