小生は4月25日から2泊3日で、某旅行社の語り部と歩く熊野三山ハイキングツアーに参加した。紀伊半島の熊野地域を歩くのは初で、神社・仏閣の荘厳さに圧倒されると共に山や海の絶景に息を飲むこともしばしばだった。
また、熊野は日本サッカー協会のシンボルマークである3本足を持つ八咫烏(やたがらす)伝説の地でもあり、以前から一度は訪ねてみたいと思っていた場所でようやく実現した。
熊野古道は中辺路(なかへち)など6コースあり、今回歩いたのはそのうちの3ルートのごく一部。初日が伊勢路(約5.4km)で、2日目は中辺路(約7.1km)、3日目は大門坂から那智の滝まで(約2.5km)を歩いた。
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大門坂から熊野那智大社に続く石畳の古道(3日目)
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伊勢路の松本峠(三重県熊野市)近くの展望台から望む七里御浜(初日)
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七里御浜の獅子岩(初日) |
和歌山県のHPなどによると、「熊野三山」は「熊野本宮大社」、「熊野速玉大社」、「熊野那智大社」の3社と「那智山青岸渡寺」1寺の総称だ。
熊野参詣道の中辺路を通じて、互いに勧請(かんじょう、神仏の来臨を願うこと)できるようになったことから、「熊野三所権現」として広く信仰されるようになった。その後、鎌倉時代以降は庶民にも広まり多くの参詣客が訪れるようになったことから、その様子は「蟻の熊野詣」とまで呼ばれるようになったそうだ。
古道には参詣中に行き倒れて亡くなった坊さんや参詣客を弔う地蔵のほか、和泉式部の和歌など多くの碑が立てられていた。
3日間のウオーキングの中で、中辺路の発心門王子(小さな神社)から熊野本宮大社までの古道が一番距離も長く、若干の上り下りもあり変化に富んでいた。
新緑に染まる熊野の山々や茶畑を眺めたり、スギ木立の中の石畳を踏みしめながら歩くのは何ともぜいたくな気分だった。また、途中ではスギ丸太の上に寝っ転がって休んだりした。
熊野本宮大社に近づいた見晴らしの良い所からは熊野川と大鳥居(高さ33.9m、横幅42m)が見えてきた。この大鳥居が立つ場所は熊野川とその支流の音無川などの中州で、1889年(明治22年)の大洪水までは熊野本宮大社の本拠地だった、という。
その広大な境内には5棟12社の社殿が一列に並んでいたが、そのほとんどが大洪水で流され、今では結宮や証誠殿などの5殿だけが現在の場所に移されている。
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熊野山系の果無(はてなし)山脈、中央が三里冨士(782.7m)(2日目)
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古道から見える熊野本宮大社の大鳥居と熊野川(2日目)
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熊野本宮大社拝殿と八咫烏ののぼり(2日目)
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本殿参拝の仕方と順番を示す説明板(画像クリックで拡大、2日目)
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熊野那智大社本殿(3日目)
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那智大社に隣接する那智山青岸渡寺(3日目)
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三重塔と那智の滝(3日目)
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鮮やかな朱塗りの熊野速玉大社の拝殿(3日目) |
熊野本宮大社の特徴は、平安後期からの神仏習合(混交)思想で与えられた本地仏(神様を仏で例えた)が、
明治政府の神仏分離政策後でも残っていることだ、と思う。
例えば、本宮大社の証誠殿に祀られている主祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)だが、本地仏は未来を司る阿弥陀如来だ。その他、中御前の伊邪那岐大神(いざなぎのみこと)は過去を司る薬師如来で、西御前の伊邪那美大神(いざなみのみこと)は現在を司る千手観音だ。さらに若宮の天照大神(あまてらすおおみかみ)は、十一面観音が本地仏となっている。
宿泊は串本町の小高い丘の上に立つ外資系ホテルでの2連泊だった。同町は、明治の時代に熊野灘で遭難したトルコの軍艦「エルトゥールル号(2,344トン)」を近くの漁民が救助したことで知られている。その船の模型がホテル庭に説明板付きで設置されていた。
さらに近年では民間企業のロケット打ち上げ基地があることでも知られており、紀伊半島南部の周辺地域に比べ、この町はかなり活気があるように感じられた。
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熊野灘で遭難したトルコの「エルトゥールル号」の模型(ホテル庭にて)
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ホテルから見える串本町の海 |
小生らのグループの語り部は、3日間とも別々の中高年の女性が務めてくれた。3人とも神社・仏閣に関する知識はもとより、植物などにも詳しかった。さらに熊野愛に溢れ、自分らの住む地域をプライドを持って紹介していく姿に感銘を受けた。
今回はホテルを含め大満足のハイキングツアーだった。しかし、歩いたのは熊野古道のほんの一部だっただけに、別ルートのツアーの企画などがあれば、ぜひ再訪したいと思っている。
(山田信廣=実高43年卒、2024.05.02up) |
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