会員からのお便り

実高卒後50周年全国同窓会を開催−昭和39年卒業生

 鹿児島県立大島実業高校(現奄美高校)を昭和39年に卒業した有志一同は11月15日、奄美市内のホテルで卒業後50周年の全国同窓会を開催した。夜の同窓会総会・宴会には奄美群島内外から総勢72人が参加。卒業後の半世紀を振り返り、旧友との絆の深さを再確認しながら今後も年の祝いなどを利用しての再会を約束した。
 昭和39年卒業生は機械、電気、農林の各科1組と家庭科2組の計157人が母校を巣立った。その後、それぞれの科別による同窓会は開かれていたものの全科が一堂に会する全国同窓会は無かったことから、全国同窓会を開催することになった。

参加者の記念写真(画像クリックで拡大)

 8月初旬から打ち合わせを開始。各科から1名ずつ代表幹事を選出することになったが、尻込みする人も出て難航し、ようやく8月末に5名の幹事が出そろった。開催日程を決定し同窓会案内の往復はがきを出すため、住所録の収集や事務作業を始めた。これらの作業では、幹事は無理だが裏方としてはがきの発送作業を手伝ってくれるなどの方もおり、大変ありがたかった。
 計5回の幹事会開催で、ようやく内容も具体化し夜の総会・宴会の他、昼間には住用町のマングローブパークでグラウンドゴルフとカヌー遊びを企画した。その結果、夜の総会には76人、昼の部には30人弱が参加を表明した。ところが、我々の年齢になると親の介護等で急な予定変更が出てくるのは仕方のないこと。前日夜に2人、当日朝に1人、昼ごろに1人と欠席の連絡が入り、集宴会場のホテルに再三にわたって人数変更をお願いした。無理筋のお願いとは知りつつ、幹事の辛い役回りであった。
 当日を迎え、昼間はマングローブパークで遊んだ。グラウンドゴルフは東西の2コース、計16ホールを回った。ベテランは少なく初めての方もいたが、それでも3人がホールインワンを達成したのには驚いた。天気にも恵まれ和気あいあいと楽しくプレーすることができ、参加者全員が満足の表情を浮かべていた。
 カヌー遊びも初めはマングローブにぶつかったり浅瀬に乗り上げたり、と思うように操作できなかった。しかし、1時間弱にもかかわらず下船するころにはほぼ全員がうまく漕ぐようになり、ゴルフ参加者同様に満足顔でカヌーを降りた。

グラウンドゴルフとカヌー遊びの参加者

 夜の総会・宴会は、72人がホテルの集宴会場に揃い午後6時30分開始。参加者名を判別し易くするため、名札を付けて会場に入ってもらった。また当初、番号札で無作為に席を決める予定だったが、せっかくの楽しい機会であり自由に気心の知れた者同士で会話が弾むように、との希望があり自由席にすることとした。
 総会は校歌斉唱から始まり、亡き友・恩師への黙とう、自己紹介、記念撮影、乾杯と続いた後、いよいよ楽しい演芸と踊り、カラオケの時間となった。男性陣が芸の一つも出せない中、女性陣は自前で用意した着物と衣装で踊りを披露した。特に奄美在住の家政科の方々がマドロス姿で踊り、大道具小道具を揃えて「稲すり節」を踊った時、会場の盛り上がりは最高潮に達した。

稲すり節の余興で盛り上がる一同

同 左

踊りを披露する女性参加者
カラオケを披露する男性陣

 会場のあちこちから「今夜は最高!」の声が多く上がり、皆が満面の笑みを浮かべていた。同時に「73歳の年の祝いにも会いたいからまた企画してください」と、幹事に声を掛ける参加者もおり、我々幹事もこれまでの苦労が吹っ飛んだ。 集宴会場の計らいで、夜の部は午後10時までの3時間30分とたっぷりのはずだったが、刺激を受けた男性陣からもカラオケの申し込みが相次ぎ、最後は申し込みを打ち切るほどの盛況となった。
 宴の最後では、別れを惜しみその場を離れがたい参加者ばかりとなり、久しぶりの仲間との絆をさらに深め楽しむため、屋仁川へと三々五々繰り出す参加者が多かった。
 多くの方から「会費が安くて時間もたっぷりあって、こんな楽しい同窓会を開いてくれてありがとう!」と、幹事連の労をねぎらう言葉も出て、幹事一同とても喜ばしい気持ちになった。これもひとえに出席者はもちろんのこと、諸般の事情で参加出来なかった同窓生の絶大なる協力のたまものである、とこの場を借りて感謝申し上げたい。

大島実業高校卒業後50周年全国同窓会
実行委員会幹事一同
代表幹事 中村孝也(文責)


昭和39年卒業生の思い出−中村孝也

 我々は昭和20年の終戦前後に奄美各地で生を受け、それぞれの地で小中学校生活を終えて旧名瀬市の配田ヶ丘の地、鹿児島県立大島実業高校に集った仲間である。私見ながら当時の思い出とその後を簡単に記したい。
 当時は現在の奄美高校のある場所に校舎と運動場、そして山手側に女子寮が隣接してあった。高校生活は昭和36年4月から昭和39年3月までの3年間だった。時代は池田勇人首相の「所得倍増論」の下、日本の高度経済成長に拍車を掛けるよう、東京オリンピック(昭和39年10月)に向け日本経済が活況を呈している時期だった。
 ちまたでは橋幸男の「潮来笠」に始まり西郷輝彦、舟木一夫の御三家の歌が次々とヒットしていた。中でも我々がまさに3年生の時に「高校3年生」が大ヒット。あまりのタイミングの良さに悦に入っていた気持ちを今でも鮮明に覚えている。
 高校生活を終えると、ほとんどの人が本土へ就職などで出ていくのは今も変わらないが、当時は「金の卵」と持てはやされていた。日本経済の活況に合わせ、我々の就職先は引く手あまただったように記憶している。
 したがって、奄美に残り生活基盤を築いた若干の人を除いて、関西や関東へ就職して定年まで過ごしてきた方が大半である。昭和39年に高校生活を終え、半世紀の50年間を社会人として働き人生を送ってきた。
 昭和30年代に始まった高度成長時代は途中、オイルショックや変動相場制への移行等で、停滞することも間々あった。が、平成3年のバブルがはじけるまでの30余年間は、一例を挙げれば、給料は黙っていても毎年1万円前後上がっていくような経済成長があった。
 振り返ってみると、我々の70年間に近い人生は、戦後すぐの食べ物がろくになかった時代さえ除けば、とても恵まれた幸せなものだった、と思う。少子高齢化やデフレ等で工場が海外へ移転するなど閉塞感に満ちた現在に比べ、我々の時代は「今日より明日は良くなる!」と夢があり、全てに幸せ感の持てる時代だったと実感している。

(実高電気科卒、2014.12.05up)



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