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 HP管理人から=山田むつみさん(S50年奄高卒)の夫君、廣義さん(大高21回卒、龍郷町出身)から表題の寄稿がありました。西郷隆盛の謫居(たっきょ)」跡が残る龍郷町出身以外の方には知られてないエピソードもあり、面白く拝読させてもらいました。

わが町の西郷さんと菊次郎−山田廣義

 西郷隆盛は明治維新での活躍後、西南戦争に敗れて城山で自刃した鹿児島きっての有名人だ。鹿児島市や東京・上野公園の銅像でその雄姿を見ることができる。
 
 しかし、島妻の愛加那(あいかな)との間に生まれた長男、菊次郎の功績などについては、あまり知られていないようだ。

 流刑地となった地元の龍郷町で言い伝えられる西郷さんのエピソードや菊次郎の生涯などについて、簡単に紹介してみたい。

東京・上野公園の西郷象(フリー写真)
西郷菊次郎肖像写真(提供=龍郷町、以下同)

 下級武士から薩摩藩の重臣となっていた西郷は、江戸幕府の大老井伊直弼が行った安政の大獄により、その身が危うくなった京都清水寺の僧月照を薩摩に匿(かくま)おうとした。

 しかし、その計画は幕府を刺激したくない薩摩藩の反対により失敗。逆に月照の追放令が出て行き詰まり、その責任を感じた西郷は安政5年11月、月照と共に錦江湾に舟から身を投じた。

 月照は死んだものの西郷は奇跡的に蘇生した。この事件により西郷は職を免じられ、奄美大島へ流刑されることになった。一方で、西郷には年12石の扶持米が与えられたこと、菊池源吾に改名されたことから、薩摩藩は安政の大獄により捕縛命令が出された西郷を幕府から隠した、ともいわれている。

 月照入水事件の翌年1月、西郷は黒糖運搬船福徳丸に乗り奄美北部の龍郷を目指し、七島灘を乗り越え現在の龍郷町阿舟港に上陸した。龍郷町では、その船を綱で留めたといわれている老松を西郷松と称して、大切に保存していた。

 だが、老松はシロアリなどによる被害で平成23年6月、立ち枯れと診断されて枝が切り落とされ、現在では幹の部分だけが残っている。

龍郷集落と波静かな龍郷湾

 西郷さんが潜伏した龍郷集落は、龍郷町(人口約6千人)の龍郷湾に面する静かな集落だ。西郷さんには名家の龍家が所有する家屋が与えられ、菊池源吾と名乗って一人暮らしの生活を始めた。

 西郷さんは島の若者に学問を教えたり、不作の年でも黒砂糖の取り立てが厳しい役人を一喝して、その制度を是正させたりした―などとの逸話が残っている。そんなことから西郷さんは島の人々に敬愛され、私の実家だけでなく龍郷町の多くの家では西郷さんが好んで揮毫(きごう)したという「敬天愛人」の掛け軸が掲げられていた。

 そのような生活を送っていた西郷さんは33歳の時、龍家一族の娘愛加那(当時23歳)と結婚し、一男一女の子供をもうけた。菊池の「菊」を取って長男は菊次郎、長女は菊草と名付けた。その菊次郎が幼い頃、庭に植えたといわれる柿木は毎年、秋には大きな実をたわわに実らせていたが、5年前に枯れ伐採されたそうだ。

 しかし、西郷さんが奄美大島に身を隠している間、江戸では桜田門外の変により井伊直弼が暗殺され、時代は一気に動き始めた。時代はまた西郷さんを必要とし、3年余住んだ奄美からの帰藩命令が下り、奄美大島を離れることになった。

枯死前の西郷松
現在の西郷松

 愛加那と子供達は、西郷帰藩後も奄美で一緒に過ごしたが、西郷が岩山いとを本妻に迎えて数年経った頃、西郷は奄美の子にも教育を受けさせたいと望み、2人の子供達は西郷本家に引き取られた。菊次郎が8歳の時だった。西郷は、本妻いととの間にも次男寅太郎(島生まれの長男が菊次郎で、本土生まれの次男が寅太郎)と2人の男児をもうけている。

 身分制度の厳しい時代、愛加那は島妻という地位でしかなく、子供もいない島で一人寂しく暮らすことしかできなかった。後年、母思いの菊次郎は西南戦争で負傷した後、20歳の頃に帰島して母と1年近く暮らした。さらに菊次郎は、日本統治下の台湾で宜蘭(ぎらん)庁長などを務めているが、台湾への行き帰りに何度か奄美の愛加那の元を訪れることがあった、という。また明治35年、愛加那が66歳で死去した年にも当地を訪ねている。

 西郷本家に引き取られた菊次郎は、12歳の時に開拓使海外留学生として2年間アメリカで見聞を広めた。帰国後、父隆盛とともに西南戦争で戦い負傷し右足の膝から下を失った。その後、外務省に入省しアメリカの日本大使館に勤務後、明治30年から台湾東北部の宜蘭庁長として活躍した。

 この間、毎年氾濫を起こしている宜蘭河の治水工事に巨費を投じ、延べ74万人の人員を投入して堤防を完成させた。そのことが宜蘭の人々から深く感謝され、その名を刻んだ石碑が建てられている。

 その後、菊次郎は明治37年から第2代目の京都市長を7年間務めている。市内の道路を広めることをはじめ、琵琶湖から京都に水を引く2つ目の疏水(そすい)の開削など京都の未来を見据えた「三大事業」の推進に尽力を傾けた。

 この事業には莫大(ばくだい)な資金が必要だったが、菊次郎は外国から資金を集めて事業を完成させた後、その利益で借金を返済するという、外国債券の資金活用で事業を推進した。

西郷隆盛謫居跡、右は勝海舟の筆による石碑

 龍郷町は平成17年町制施行30周年に当たり、菊次郎を名誉町民に選定した。西郷さんの謫居跡は、今でも龍家の私有地だ。私の同級生の龍君の実家でもあったので、何度かお邪魔したことがあった。が、その友人も既に亡くなり、当時は青々と葉を茂らせていた西郷松や柿木の枯死を思う今、私は悠久な時の流れを感じる今日この頃だ。

 かやぶき屋根の家屋には、西郷家族が住んでいた往時を偲(しの)ばせるものが多数展示されている。この謫居跡が多くの人に観覧され、明治維新の立役者の一人となった西郷さんの奄美時代や菊次郎の功績などについて、より多くの人々に知られ語り継がれることを私は願っている。

(2014.11.09up)



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