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果樹栽培を生きがいに−岡山照彦

 埼玉県在住の小生は年に3回ほど、奄美市名瀬小宿町の実家に果樹栽培の世話で帰郷している。先日も2月13日から同25日まで帰り、タンカンの収穫や草刈り作業などに追われた。
  現役時代のデスクワークに比べ体を使う仕事は、古希に近づいた身には少々こたえてくる。しかし、果樹栽培は小生の生きがいの一つであり、さらに94歳になる年老いた母の喜ぶ顔や古里で酌み交わす黒糖焼酎を楽しみに、このような生活が当分続きそうだ。

ほぼ収穫された後のタンカンの樹木

 果樹園は実家から15分ほど歩いた山裾にある段々畑だ。タンカン20本、ポンカン10本、スモモ28本で、合わせて計58本を約260坪の畑に植えている。農協に供出するほどの収穫量はないが、それでも先月の帰郷時にはタンカン約100キロを収穫し、親戚や知人らに送り喜ばれた。
  実家は果樹専業農家をやっていたのではないが、小規模といえども一年を通して専業農家と同じ作業をしなければならない。春の施肥から始まり、枝の剪定(せんてい)や果実の間引き、干ばつ時の水やりなどさまざまな作業が待っている。
  基本的な農作業は母と妹がやっているが、忙しく男手が必要になると小生の出番となり帰郷することになる。昨年10月にはタンカンなど果樹園の下草刈りに帰った。また、その前の4月にも帰り、スモモの剪定や草刈り作業などを行った。
  樹木の下草刈りは、一年を通してしなければならない。特に梅雨時と夏場が大変だ。むせ返るような草いきれの中、生長する草との競争が強いられる農作業だが、収穫時を楽しみに汗を流している。

畑からは小宿の町が見える

咲き始めたスモモの花

草刈り機で作業をする小生
小生と母

 このように手塩に掛けて育てた果樹も、時にはイノシシやヒヨドリの餌になってしまうことがある。3年前、タンカンがイノシシとヒヨドリに食い荒らされ、収穫量が半減したこともあった。 その際には、使い古しのトタン屋根をイノシシが下りてきそうな獣道に数枚敷いたり、一部分に鳥除けのネットを張ったりした。
  翌年から食害は少なくなったような気がしているが、完全防御はとても無理だ。そこは自然界への少しばかりのおすそ分けだと割り切っている。
  しかし、時たまケンムン(奄美の妖怪)や2本足の動物サマ(?)に盗られることもある。収穫間際の果物が盗られた後の状態を見ると、とても複雑でやるせない心境になってくる。本土でも時折、都市近郊にある農家の高級ブドウや野菜などが盗られた、と警察沙汰になったりする。
  こんな人情味豊かな奄美も同じようになったのかと気落ちし、悲しくなってくる。畑を囲う柵を設けるわけにもいかず、こればかりは手の施しようがないのが実情だ。

実高時代の友人らと黒糖焼酎を楽しむ(奄美市の居酒屋にて)

 これまで記したとおり、小生の場合はお金もうけにもならない悲喜こもごもの果樹栽培だが、それなりの楽しみもある。高校時代の友人や近所の人達と黒糖焼酎を飲むことだ。ゆったりした時間の流れの中で、昔話に花が咲き、夜が更けるのも忘れてしまう。
  小生は、埼玉ではサンデー毎日(毎日休日)の生活を送っているが、古里での土いじりや果樹の世話は、心地よい疲れが残り夜は熟睡できる上、都会での単調な生活からリフレッシュした気分になる。今後も体力の続く限り、親孝行を兼ねたこの里帰り農作業を続けていきたい、と思っている。

 余談ながら
 
小生は高校時代、小宿の自宅から自転車で朝仁峠を越えて名瀬古田町の実高まで3年間通った。当時、朝仁トンネルは開通しておらず、片道1時間ちょっとかかっていた。 そんな中、朝夕目にするのが朝仁新町の千年松公園にある「朝仁の千年松」(愛称)だった。
  朝見る時は、これからきつい上り坂を峠まで自転車を押して歩かねばならないと思い、夕方の帰りの際にはやっと帰り着いた、とホッとしたものだった。 帰郷でこのトンネルを通る度、そんな半世紀以上前のことを昨日のことのように思い出す。雨の日、かっぱを着て通学したそんな辛かった過去も今では懐かしい思い出となっている。

朝仁の千年松(写真はmayuさん提供、2003年8月撮影)

 そんな思い出のある千年松だが、近年は枝先が枯れるなど樹勢が衰えている、という。この松を奄美市の「第1号保存樹」に指定した同市は、薬剤注入などを行い樹勢回復に努めているそうだ。朝仁のシンボルだけに、枝が枯れ伐採された龍郷町の西郷松のようにならないよう、長く生き続けてほしいと願っている。

(実高S39年卒、2014.03.14up)



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