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奄美新民謡と私の思い出−mayu

 私は今、奄美新民謡の「名瀬セレナーデ」や「新野茶坊」などをCDで聴きながら、この原稿を書いている。新民謡は田端義夫さんの「島育ち」の全国的な大ヒットにも触発されたのか、昭和30年代半ばからの10年間が一番盛んに歌われていたのではないか、と思う。
 私は音楽活動とは無縁だったが、同窓生などを通じて新民謡を作詞・作曲した人たちとほんの少しばかり触れ合いがあった。そんな私の思い出を記してみたい。

昭和30年代の村田実夫氏(龍郷町のソテツ畑にて)

奄美歌謡歌詞集 (写真はいずれもセントラル楽器店のCDジャケット等から

  前記の「名瀬セレナーデ」や「本茶峠」、「農村小唄」などを手掛けた村田実夫氏は当時の名瀬市(以下同)で大正8年に生まれ昭和48年に亡くなった。歌手、作曲、演奏(和洋楽器)をこなし、昭和30年代の沖縄でバンドマスターを務めていた。
  正確ではないかもしれないが、実夫氏は身長180センチぐらい、体重も110キログラムほどの大柄な体格だった、ように思う。次男のJ君とは小学校から高校まで同窓生だった。J君が6年生の時、実夫氏がアロハシャツ着用で授業参観に来てかなり目立っていたのを覚えている。
  私が中学生の頃、金久中グラウンドで名瀬市の音楽イベントがあった。アコーディオンを奏でながら南米の名曲「ベサメムーチョ」を歌い、その歌声は迫力があり甘い声に魅了されたことを、昨日のように思い出すことがある。
 また高校生の頃、私たち友人は名瀬市矢之脇町のJ君の家に入り浸った。実夫氏は普段、私生活ではデカパンとステテコを着用し、Lサイズの浴槽に浸かりゆっくりと風呂を楽しんでいた。その体格の割には、何とも小さなホンダのスーパーカブ(50CCバイク)に乗り、ダルマ通りの紬問屋で働き、音楽活動との兼業を行っていた。
  私が社会人になった時、そのお祝いとして自営の「BAR・ブルースカイ」に友人らと共に招かれ、三線などの演奏と生歌を聴き、そして食事をご馳走になったこともあった。体は大きくて気は優しく飾らない人柄で、奄美への貢献度は高く新民謡の父であったと思う。
  なお、村田実夫氏と「島のブルース」や「お富さん」などを作曲した渡久地政信氏は「島育ち」や「徳之島小唄」などを作曲した三界稔氏の同門で兄弟弟子だった。

 次に思い出すのは、「新野茶坊」(作曲/三界稔)を作詞した甲東哲(きのえ・とうてつ)氏だ。東哲氏は大正15年に和泊町で生まれ、昭和62年に亡くなった。私の金久中3年時の担任であり、国語の教科を担当していた。

 

 

 

 

 

甲東哲氏
当時の金久中学校(いずれも金久中アルバムから)

 作詞ばかりでなく、奄美関係の書籍も多く著しており「民族語集沖永良部」「島のことば・改訂版」「わが奄美考 奄美の心・方言・島唄」等があり、名瀬市誌編集委員でもあった。
  細身の風貌で頭髪はオールバック。人物に例えると写真で見る幕末の志士、坂本竜馬に顔立ちが少し似ていた気がする。授業中はひょうひょうとして、それほど面白くもなかったが、きっちりと丁寧に教えてくれた。生徒名を独特なイントネーションで読んでいたのが印象に残っている。
  当時、実はこの新野茶坊が恩師の作品とは知らなかった。社会人になりカラオケなどでこの曲を歌うようになってから分かった次第だ。その時は少々驚いた。奄美島唄の「野茶坊節」とどのような関係で作ったのか、今となっては知る由もない。恩師作と知っていたのならその経緯を聞いたのだが、残念であった。

  HP管理人から=気持ちが癒される奄美新民謡は小生も好きで、今でもカーステレオに入れ時折聴いている。中でも一番好きな曲は朝丘雪路さんが歌う「島かげ」(作詞/村山家国、作曲/福島豊彦、編曲/寺岡真三)だ。米軍統治下の時代、祖国への思いを歌った分離期の最初の歌だそうだ。
 特に10年ほど前、愛知県で単身赴任中だった頃は聴く機会が多かった。留守宅の東京に帰るため、新幹線だけでなくたびたび車も使ったからだ。古里の風景や情景、当時の人情を思い出しながら、ゆったりとした新民謡のリズムに乗り東名高速道路を安全運転で走った。単身赴任は少し大変だったが、今では懐かしい思い出となっている。
  南日本新聞のコラム「奄美なひととき」の中で、〜奄美新民謡の歌われていた頃〜と題して、コラムが載っていますのでご覧ください。

(実高S43年卒、2014.01.27up)



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