奄美シマ唄と私−折原誠司
私は奄美とは縁もゆかりもない千葉市の生まれ、そして育ちも千葉市です。それ故、奄美のシマ唄と出合うまでは奄美出身の友人・知人はおろか、奄美大島がどこにあるかさえ正確には知りませんでした。
しかし、シマ唄に出合ってからはすっかり奄美ファンとなり、シマ唄を通して奄美の名を広めようと頑張っているところです。
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第4回奄美島うたのど自慢大会で富佐秀則さんのおはやしを務める私(左)
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そんな私が奄美のシマ唄に触れたのは今から10年ほど前、20代終わりの頃だったと思います。私は音楽の趣味が非常に偏っており、CDショップの「その他」コーナーで民族音楽をテクノ(電子音楽)風にアレンジしたものを視聴し、気に入ったら買うというのがその頃の楽しみでした。
ある日、とても好きになったヒーリングミュージック(癒し系音楽)の「DeeP Forest」というフランスの二人組のCD「Will you be ready」を何度も聞いているうち、日本人が仏語とも日本語ともつかない言葉で歌っているような曲が入っているのに気が付きました。
調べたところ、それは元ちとせさんの「糸繰り節」で、奄美の方言で歌っていたのでした。そのちとせさんのファンサイトで37.6というサイトがあり、そこで知り合った奄美出身の友達に、新宿にあった「朝花」というお店へ連れて行ってもらいました。
そこは奄美出身の方が経営する居酒屋で、店主が三線を弾きながらシマ唄を聞かせてくれました。見た目は沖縄風の三線なのに、唄の感じも言葉も音色も全く違い、料理もお酒も美味しく全てに魅せられてしまいました。何か心の琴線に触れるものがあり、自分が探し求めていたものに出会ったような気がしました。
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奄美市笠利町赤木名の浜で六調を踊る(昨年10月)
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同上の浜でご馳走をいただく(同上)
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それまで私は、コンピュータいじりくらいしか趣味がなく、お酒もほとんど飲みませんでしたが、毎週末、通ってはシマ唄を聞かせてもらい癒されました。何回も通っているうちに、師匠(店主)や先輩から三線を習ってみないか、と誘われました。
全く分からないから怖いもの知らずだったのでしょう。そこの教室に入門することにしました。私は父親に似たのか、聴くのはともかく楽器の演奏は小さな頃からからっきし駄目でした。
しかし、三線は音階が違いますし他にやっている人がいないおかげで焦ることもなく楽しめました。それから先輩とともに師匠の前座をやったり、唄遊びのようなことをしたり、とにかく練習が楽しくなり、30歳までの人生とはうってかわって充実し始めました。
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赤木名の八月踊りを体験した(昨年10月)
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同上。マイクを持つ森山先生(同上)
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残念ながら3年ほどして、そのお店は閉店となり教室はなくなってしまいました。習ったのがカサン節(奄美大島北部の唄い方)だったので、他のヒギャ節(奄美大島南部の唄い方)の教室に通うこともありませんでした。
たまに奄美の郷友会にお邪魔させていただく程度の活動を数年続け、そこで出会った北部大島の方々と、カサン節を練習しようということになりました。そうした中、現在の山ゆり会会長の向中野末子さんから、奄美市笠利町在住の森山ユリ子先生を紹介していただきました。先生のCDをお手本にして、カラオケボックスを拠点に4人で月2回ほど練習するうち、だんだん仲間が増えて行きました。
一昨年10月、森山先生が東京で開催される東京笠利会で数曲唄われることになり、自分は三線役を担当することになりました。その前に練習をこなしてから奄美に行き、先生と音合わせをしたのですが、ここでやっと三線の本来の難しさを知りました。
また、シマ唄の歌詞の意味を理解するのにも苦労しました。 奄美では「唄に三線をつける」とよく言うそうですが、それが全くできていなかったのです。ショックを受け帰ってから一週間、それまでのことは忘れて、森山先生の三線役を務めている隈元紀久先生の弾き方をなるべくまねることにしました。その結果、本番はかろうじて止まらずに弾き終えることができました。
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森山先生から指導を受ける会員(東京で)
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その後、私たちのグループは先生の名前をもじって「山ゆり会」という名前を付け、奄美の各郷友会にも出演させていただくようになりました。発足から2年半ほど経って会員は奄美出身者を中心に19人(2013年8月現在)にまで増えました。
現在、主に池袋の豊島区勤労福祉会館で月2回(主に日曜日、4時間ほど)、練習を行っています。今年5月にあった「渋谷・鹿児島おはら祭」では、東京配田ヶ丘同窓会の踊り連に参加させていただきました。
そして今は、笠利町赤木名集落の八月踊りにも挑戦しようとしています。10月には奄美から上京される隈元先生に合わせ、身内だけで初めての発表会も予定しています。
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5月の「渋谷・鹿児島おはら祭」終了後、東京配田ヶ丘同窓会踊り連の打ち上げで三線を弾く私
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自分を変えてくれた奄美や人々への恩返しとしてもシマ唄を今後も続け、それを通して私同様“奄美とは縁もゆかりのない”人たちにも奄美の食や文化が知られるよう、努めていきたいと思っています。
・山ゆり会のホームページはこちら
(2013.08.18up)