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宮崎市のリトル奄美・沖縄地区を歩く−宮津澄義

 私は現在、宮崎に住んでいる。当地にも奄美や沖縄にゆかりの地域があり、写真と文で紹介しようと、5月下旬の某日久しぶりに訪ねてみた。その地は、宮崎市の大島町や波島など旧大島地区と呼ばれる地域である。

波島地区から眺めるシェラトンホテル(左)とシーガイヤ

  宮崎市の東側に位置し、近くにはシェラトンホテルなどが入るシーガイアリゾート、ダンロップトーナメントの会場となっているフェニックスゴルフ場、フラワーパーク等などのレジャー・観光スポットが集中し、現在では市内でも有数の住み良い場所となっている。
  しかし、ここが今日のような住み良い環境は当初から約束されたものではなく、故郷を遠く離れた異郷の地での生活は、苦難の連続であったものと推察される。
  そもそもこの地区は第2次世界大戦前、この近くに軍需工場があった関係で、工場の労働者として奄美や沖縄出身者が住み始めたのが始まりだそうだ。その後、先に越してきた親せき関係を頼って出て来たり、戦中・戦後に奄美や沖縄からの疎開などもあって、このように大規模な集落になっていったと聞いている。

奄美の黒糖焼酎を販売する酒屋
玄関口に魔よけのシーサーが飾られている

 先人たちが移り住んだ当初は、当然のことながら生活は決して裕福ではなく正に食糧難と物資が不足した時代・・・。地元に親せきや身寄り等もなく自給自足の生活(ヤミ製造やヤミ商売)と出身集落の者同士が持つ特有のつながり、それに奄美・沖縄独自の風習などがあり、当時は周辺地域とは異なった生活圏が形成されていたようだ。
  よって治安が決して良かったとは言えず、地元の人たちはこの地に足を踏み入れることをためらうこともしばしばだった、と以前耳にしたこともあった。
  現在、この地区の人口は約3000人ほどだと思われるが、時代の流れと共に一世は亡くなったり高齢者となり、今では2世、3世の時代へと移り変わっている。島の方言をしゃべれない、島言葉を知らない人が大部分であり、そこに暮らす人たちの生活様式や故郷への思いもだんだんと変わってきているようだ。

大島町を示す案内

大島町の案内と内科医の案内

波島地区にある紬工場
波島地区のバス亭

  しかし、奄美・沖縄の風習や文化は今でも若い人たちに一部受け継がれている。毎年、この地域では旧暦の行事や盆踊り、エイサーなどが行われており、形を変えて遠く離れた故郷を懐かしむ人も少なくないようだ。
  現在、宮崎市や県下の小学校の運動会ではエイサーの踊りを取り入れている学校が年々増えている。また、波島地区からは県議や市議を議会に送り出しており、宮崎市の市議会議長はこの地区から選出された徳之島出身の2世の方が務めている。

波島地区の通り、右は奄美や沖縄で多い名字の精肉店

  さらに同地区出身の方たちが、いろいろな事業や商売などで活躍され、地元宮崎の社会、経済の発展に多大な貢献を果たしていることも付け加えておきたい。皆さんが宮崎へ来るような機会がある場合は、名所・旧跡の見学やグルメもさることながら、当地へもぶらっと足を運んでみてはいかがだろう! きっと懐かしい地名や町並みに出会えるはずだ。

(S43年実高卒、2013.07.04up)


 HP管理人から=小生が30代で鹿児島市在住・在勤の頃、奄美関係者が比較的多く住んでいたのは、同市の三和町や真砂町などだった。当時、古里の面影を求めて何度かぶらぶらしたことがあった。決してきれいな町並みとは言えなかったが、機織りの音なども聞こえ、奄美の雰囲気が感じられた。今でも時折、懐かしく思い出すことがある。


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